再 建 への 歩 み
文政11年(1828年)以来、126年間も天守閣のない状態が続いていましたが、なぜ岸和田城が
再建されたのでしょうか?
城復興理由は、「岸和田市史」など歴史文献からたどっていっても、明記された書物は見当たりません。特に何かを記念して、昭和29年に竣工したというようなエピソードも見当たりません。
ただ調べてみると当時の天守閣復興は、国や市の補助金だけで建てられたのではなく、市民一人一人の寄付により建造された事が、ひも解かれてきました。
長年にわたり、市民の憩いの場として親しまれてきた堀と天守台。この城址に何としても、
天守閣を復興させたいという思いや、焼失した天守閣が、隣の徳川御三家・紀州藩の三層よりも壮大な五層であったと伝えられてきたことを、市民が誇りにしてきたことなどが再建への強い原動力となったと思われます。
再建後52年を迎える岸和田城は、当時の資料や上棟札には「再建工事」と記されており、
歴史に正確な「復元工事」ではありません。当時の市立図書館の新築工事として、岸和田市民の思いと寄付金で再建工事は行われたようです。
当時の天守閣再建にあたっては、大阪府・土木部計画課から復元ではないので許可しない。
との指摘があったとのことです。
理由は、天守台への建造が木造ではなく、鉄骨鉄筋コンクリート造である点。
予算面から五層ではなく三層である点などで、府の不許可に対し、設計士・池田谷久吉氏は猛反論し、歴史的観点に立って設計し、建築する旨を主張されました。
また、当時東京赤坂にお住まいの岡部氏(城主の子孫)からも天守再建への強い要望があったことも後押しされて、昭和29年に市民のシンボルとしての岸和田城天守閣が蘇ることとなりました。
昭和初期の岸和田城
1827年に雷で消失して以来、石垣だけであった。
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城郭の石垣
石積み技法は、戦国時代の城に見られる自然石に手を加えずに積む「野面積(のづらづみ)」と言われています。
石垣の角は、崩れやすいので特別な工夫が凝らされ
ている「算木積み」で組まれています。
※「算木積み」(さんぎつみ)
石垣の角部に用いる積み方でほぼ直角に加工した切石を長い面と短い面を交互に積み上げていくつみ方、見た目も美しく丈夫である。
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小天守前の石段 |
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岸和田城には、和泉砂岩という壊れやすい石を多く使用している石垣を補強する為に作られたといわれている『犬走り石垣』という周堤帯があります。1999年6月28日の豪雨で、城の石垣が崩れ、現在は一部を強度のある花崗岩で補修されています。 |
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工 事 概 要
工事名称 |
再建岸和田千亀利城天守 工事 |
設 計 |
池田谷一級建築士事務所(建築士:池田谷 久吉) |
施 工 |
岩出建設株式会社
(所長:諌山氏 所員:野内氏 /奥氏 /畦地氏) |
工事金額 |
当時の金額で、3,460万円
(内460万円は、城跡保存会の斡旋で多くの市民から寄付が寄せられました。) |
工事期間 |
約10ヶ月(昭和29年1月6日起工〜同年11月13日竣工) |
構 造 |
SRC造(鉄骨鉄筋コンクリート造)、大屋根部分−鉄骨下地+木造
三層五重本瓦葺き |
設 計 図 面
(建築士 池田谷 久吉)
(画像をクリックすると拡大写真が別のウィンドウに表示されます)
天守の基壇部(土台の石積み)を壊さないように、
潜函(井戸の要領で周りを補強
しながら深い基礎を作る)工法が採用されています。
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鉄骨骨組図面
この図面により鉄骨鉄筋コンクリート造りの城が築かれました。 |
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小天守の断面図
木造で描かれていますが、工事中に
鉄筋コンクリート造りに変更されています |
工 程 表
工事写真で見る再建の歩み
(画像をクリックするとページが表示されます)
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